解きながらわかる熊野筆
その1 解説

第一章 熊野町と熊野筆の歴史

解きながらわかる熊野筆その1

「熊野町が筆づくり日本一になったヒミツ」

【問題1】現在の熊野町で筆づくりが行われ始めたのは何時代といわれているでしょう。

【答え】江戸時代

【解説】
熊野町で筆づくりが始まったのは江戸時代末期といわれています。当時の熊野の人々は、主に農業で生計を立てていましたが、農地も少なく、それだけでは生活を支え切れず、農閑期には出稼ぎに出ていました。出稼ぎの帰りには、筆と墨を仕入れて、それを行商しながら帰っていました。これが、熊野と筆を結びつける結果となったのです。

【補足】
明治38 年8 月16 日の芸備日日新聞には「安芸郡熊野村の製筆事業は古来行われ来るものにして…」という記事が掲載されており、また昭和4年11 月4 日の中国新聞の記事では「安芸郡熊野村の製筆業は、今は去る約四百年前輸入されたもので…」と掲載されています。
これは室町時代末、遅くとも安土桃山時代から熊野と筆の関わりがあったと読み取れる内容です。熊野筆の歴史は、実はかなり古くからあったのかもしれません。

【問題2】江戸時代、熊野の人たちは、主にどういったところに出稼ぎに行き、どこで筆や墨を仕入れていたのでしょう。

【答え】吉野(奈良県)や紀州(和歌山県)に出稼ぎに行き、奈良・大阪・兵庫で仕入れていた

【解説】
熊野の人々は農閑期には吉野(奈良県)地方や紀州(和歌山県)地方に出稼ぎに出ていました。出稼ぎの帰りには奈良や大阪、有馬(兵庫県)地方で筆と墨を仕入れて行商しながら帰っていました。

【補足】
住屋旧記帳など、熊野の墨筆行商に関する記録が残されています。
寛政7 年(1795 年)「九州豊後(大分県)へ墨筆の行商に下り…」、寛政9 年(1797 年)「荷物仕入通広島卯市屋…」という記録が残されており、古く18 世紀末には、広島城下から墨筆を仕入れて九州方面へ行商していたとわかります。また、寛政10 年(1798 年)には「上方(関西)直仕入致す」との記録もあり、仕入先を上方からの直仕入れに変更したこともうかがえます。

【問題3】行商で筆と結びついた熊野の人たちに、筆づくりの技術が伝わったのはなぜでしょう。

【答え】熊野の若者が筆づくりを学び、熊野で技術をひろめた

【解説】
天保5 年(1835 年)佐々木為次は、有馬(兵庫県)に行きました。そこで彼は筆の作り方を学び、熊野に帰ってきました。また弘化 3 年(1846 年)、井上治平(井上弥助)は広島の浅野藩御用筆司、吉田清蔵より筆づくりの技術を学びました。さらに同じころ、乙丸常太(音丸常太郎)も有馬(兵庫県)より筆づくりの技術を学び、熊野に帰ってきました。
そして彼らは人々に技術を広め、筆づくりは熊野に根を下ろし始めました。

【補足】
「天保2 年(1831 年)、熊野村の『畑ノヨ』という女性が筑前(博多)に奉公に出て、当地の毛筆製造者「久作」と結婚し、熊野に帰郷して夫婦で筆製造をはじめたが、彼らが亡くなった後、一旦途絶えてしまった…」という内容の記録が大正8 年の広島県内務部の資料にあり、この『畑久作・ノヨ夫婦』が熊野筆の創始であるともいわれています。

【問題4】熊野から初めて、佐々木為次が筆の技術を学ぶために有馬に行ったのは、今でいえばどのくらいの年齢だったでしょう。

【答え】中学1年生

【解説】
佐々木為治が有馬に行ったのは13 歳の時でした。有馬で4 年間修業し、熊野に帰ってきたのは天保9 年(1839 年)17 歳のときでした。また、井上治平(井上弥助) が筆づくりを学んだのは18 歳の時でした。

【問題5】明治時代に入り、筆の需要が増え、熊野の筆づくりも飛躍的に発展しました。さて、日本全国で筆の需要が増えた理由はなんでしょう。

【答え】明治政府が新しい学校制度を制定したことにより子供たちが学校で筆を使うようになったから

【解説】
熊野に伝わった筆づくりが飛躍的に発展したのは、明治に入ってからです。明治5年(1872 年)に学校制度ができ、学校に行く子供が増えると筆がより多く使われるようになりました。そのため筆づくりをする人が増え、良い筆を作る努力や工夫がいっそう進められるようになりました。

【問題6】筆づくりの技術が向上し、生産量も増えた熊野筆が、日本全国に知られていくようになったきっかけはなんでしょう。

【答え】国内の博覧会に出展され、熊野筆が入賞した

【解説】
明治10 年(1877 年)には、第1 回内国勧業博覧会に出展された熊野筆が入賞しました。
人々のこうした努力によって熊野筆の名は全国に知られていくようになりました。

【問題7】明治の学校制度によって筆の需要が伸びる中、東京、大阪、奈良などでは近代産業の発展とともに次第に筆づくりなどの伝統産業が衰え始めました。そんな中、熊野筆が発展していった主な理由はなんでしょう。

【答え】熊野には新しい産業が入ってこなかったので、筆づくりの技術向上に努めたから

【解説】
明治33 年(1900 年)に義務教育は4 年間になり、学校に通う子供たちの数が更に増え、筆はますます使われるようになりました。この頃から東京、大阪、奈良などでは近代産業の発展とともに次第に筆づくりが衰え始めました。一方、熊野には新しい産業が入らず、筆づくりが地域を支える産業として発展していきました。熊野筆は、大阪、奈良などの筆に比べ、大量生産が可能となるよう研究・工夫がなされており、特に学童用の筆の大量需要に対応できたことも、熊野筆が発展していった要因の一つであったといわれています。さらに熊野町では、戦前から中央の書家、芸術家を招き、その先生方が使っている筆を研究し、試行錯誤を重ねながら技術を発展させ、今日に反映させてきました。

【問題8】熊野筆は発展していきましたが、第二次世界大戦が勃発する直前、昭和11 年における熊野筆の年間生産本数はどのくらいだったでしょう。

【答え】約7000万本

【解説】
第二次世界大戦がヨーロッパで勃発する3 年前、日中戦争勃発の前年の昭和11 年(1936 年)の熊野では約7000 万本もの筆を作るまでになっていました。

【問題9】第二次世界大戦が勃発し、太平洋戦争が始まると、熊野の筆づくりはほとんど出来なくなりました。その主な理由はなんでしょう。

【答え】筆を作るための原材料が入りにくくなったから

【解説】
第二次世界大戦が起こると、原料が入りにくくなり、また、働く人を戦争に取られるなどの理由から、筆づくりがほとんど出来なくなりました。そして戦争が終わっても、すぐには筆の生産は回復しませんでした。

【問題10】戦争が終わっても、すぐには筆の生産が回復しなかったのはなぜでしょう。

【答え】アメリカ占領軍の命により、学校教育から習字教育がなくなったから

【解説】
アメリカ占領軍(GHQ)は軍国主義時代の日本の教育を否定し、剣道・柔道などの武道を禁じ、日本文化が色濃く感じられる書道も否定したといわれています。
戦争が終わって2年後、占領軍統治下で作られた学制が1947 年4月に実施されました。学校での習字教育がなくなり、子供たちが学校で筆を使うことがほとんどなくなりました。筆の需要は減り、このことは熊野の筆づくりにとって大きな問題でした。

【問題11】毛筆の需要が減った熊野では、何に活路を見出そうとしたのでしょう。

【答え】化粧筆

【解説】
人々は、この問題を解決するために知恵を出し合いました。そうして、このころ画筆や化粧筆づくりに活路を求める人もありました。それから日本の筆の需要が回復し、筆づくりに再び希望がもてるようになるには、長い年月がかかるのです。

【問題12】昭和30 年代に入り、筆づくりに再び希望がもてるようになったのはなぜでしょう。

【答え】学習指導要領に毛筆習字が取り入れられたから

【解説】
小学校で毛筆習字が許されるようになり、昭和33 年(1958 年)には、文部省の学習指導要領に「毛筆による書写を課することができる」旨定められたことで、筆づくりに再び希望が持てるようになりました。

【問題13】昭和50 年(1975 年)に熊野筆にとって大きな出来事がありましたが、それはなんでしょう。

【答え】熊野筆が伝統的工芸品に指定された

【解説】
昭和50 年(1975 年)には、熊野の筆産業が、中国地方で最初に伝統的工芸品として通商産業大臣(現在の経済産業大臣)より指定を受けました。
またこれは、筆産業として日本初の快挙でもありました。