解きながらわかる熊野筆
その4 解説
第一章 熊野町と熊野筆の歴史
解きながらわかる熊野筆その4
「筆祭り」
【問題30】筆まつりに関わりの深い日本三筆の一人は誰でしょう。
【答え】嵯峨天皇(さがてんのう)
【解説】
筆まつりは、日本三筆の一人である嵯峨天皇を偲び、合わせて熊野を日本一の生産地に育てた先人達の労苦に感謝し、ますますの発展を願って、秋分の日に筆まつりの祭典を行うようになりました。
【問題31】第1回目の筆まつりが開催されたのは、いつのことでしょう。
【答え】昭和10年
【解説】
筆まつりは昭和10 年(1935 年)9 月24 日、熊野町商工会設立十周年に当たって、第1回が開催されました。第1 回以後、現在まで、毎年彼岸の中日(秋分の日)に行われています。
【問題32】第2回筆まつりで初めて披露された踊りの名前はなんでしょう。
【答え】筆踊り
【解説】
昭和11 年(1936 年)9 月23 日に第二回筆まつりも榊山神社にて祭典が行われ、神社そばの小学校校庭で初めて筆踊りが披露されました。各地区競演で、少女ら約600 名が熱演しました。
【問題33】昭和11 年第2回筆まつりで披露された筆踊りの小唄「筆まつり」の作詞家で,童謡界の三大詩人の一人と謳われた人は誰でしょう。
【答え】野口雨情
【解説】
この筆踊りの小唱は、昭和11 年8 月20 日に作詞家野口雨情、作曲家藤井清水の一行が熊野を訪れ「筆まつり」と題する十七番と、番外として造酒屋三軒の唄もつくられました。なお熊野を発つ28 日の朝、熊野第一小学校校歌もつくられました。
【問題34】筆まつりの見どころのひとつで,まつりの当日、町を引かれて廻る船を何というでしょう。
【答え】彼岸船
【解説】
彼岸である筆まつりの日に引く彼岸船の行事は、筆まつり以前から行われていました。
今では地元保存会の方々の尽力により、筆まつりの一環として盛大に行われています。
【補足】
彼岸船の起源は千数百年も昔、飛鳥時代の「白村江の戦い」に遡るという説があります。
「白村江の戦い」とは、天智2 年(663 年)、朝鮮半島の白村江で、百済(くだら)、日本の連合軍と唐、新羅の連合軍が戦った海戦です。日本軍は百済の救援のため、2万以上もの兵を送ったといわれます。日本は唐の水軍に敗れ、3千名~5千名もの兵が戦死したといわれ、この中には瀬戸内海沿岸の若者が多くいたといいます。
彼岸船の由来として「昔むかしの大昔、遠い遠い海の向こうで大勢の人が死んでのう、それを弔うために舟を昔から曳きよるんじゃ」という言い伝えがあります。太古の日本で「遠い海の向こうで大勢の人が死んだ」と伝説になるような悲惨な事象は、歴史上「白村江の戦い」が最もあてはまると考えられます。また、白村江の戦いは旧暦8 月27、28 日に起こっており、現在の暦の「彼岸」と同じ時期にあたるのも、この説の論拠の一つです。
昔は小さな舟を子供たちが、お盆過ぎから彼岸まで、弔いのろうそくを立てて自宅の周り
を曳いていました。明治時代後半、道幅が広くなり、一人で曳いていたものが現在のよう
に団体で引く大きな船になりました。
【問題35】筆まつりで、筆への感謝と共に、筆づくりのために毛を提供してくれた動物達の供養と書道の上達を願って火の中に筆を焼納する催しをなんというでしょう。
【答え】筆供養
【解説】
この行事を筆供養といいます。筆供養は、筆に対する感謝、動物達の供養とともに、書道の上達を願って浄火の中に筆を焼納します。熊野で生まれた筆たちはその役割を果たした後は再び熊野へ帰り、当地で永代供養されるのです。
【問題36】昭和40 年(1965 年)9月に榊山神社境内に建立された「筆塚」の題字は元総理大臣が書いたものです。さて、誰が書いたものでしょう。
【答え】池田勇人
【解説】
昭和40 年9 月に筆の精と筆づくりの先駆者の功に感謝を込めて榊山神社境内に建立された「筆塚」は、筆の都熊野のシンボルです。「筆塚」の文字は、広島県出身の首相、池田勇人元首相の肉筆を刻んだものです。
【問題37】昭和53 年(1978 年)の筆まつりから榊山神社の参道や鳥居に筆がつりさげられるようになりました。この通りの名前はなんでしょう。
【答え】一万本の筆通り
【解説】
昭和53 年(1978年)第44 回筆まつりでは、「一万本の筆通り」と「競書大会」の行事が加わり、筆まつりも更に盛大になりました。町内のみならず、県内外から多数の観光客が来訪されました。
【問題38】筆まつり大作席書で使われる特別な布の大きさはどれくらいでしょう。
【答え】20畳
【解説】
特別に大きな布に、巨大な筆で書き上げる大作席書は、筆まつりのイベントの中でほかでは絶対見られないものでしょう。なんといってもおよそ20 畳もの広さの布に、一気に書き上げる様は圧巻の一言です。